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メッセージ(文書)

聖書の真理を分かりやすくお伝えすることをモットーに書いています。


  詩篇19篇の味わい
     NTT-OB 福島 勲

 1969年11月25日、私が通信担当隊員として参加した第11次南極観測隊(松田達郎隊長以下越冬隊30人・夏隊10人、定常観測の他、オーロラ観測用ロケットの発射とみずほ基地を新たに建設する)を乗せた南極観測船ふじは東京晴海埠頭を離れ、南極に向けて出航した。途中、赤道を通過し、12月10日には、オーストラリアの西のフリマントルに寄港。一週間後、再度、南極に向けて出港する。(中略)

 厳しく苦しかった暴風圏を過ぎるや、氷山や海氷の浮かぶ氷海に出ると、海は暴風圏がうそのように静かになる。別世界が現れた。なんと、夏の南極海風景です。
 私は北海道で生まれ育って、それまで美しい青空はいくつも見てきましたが、別格のものです。その光景に圧倒されました。その時、内側から御言葉があふれ出てきました。詩篇19篇です。


 

   
十字架の叫びの意味     NTT-OB 福島 勲

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです」(Ⅰヨハネ3:16)「カルバリの十字架わがためなり」(聖歌399番)と救いを体験した時、ことばで言い表すことのできない喜びと感謝でいっぱいでした。

 中学生の頃から、朝、目が覚めた時、フッとどうすることもできない心の空虚さと不安が襲って来ることがありました。時には、余りの空虚さに、死にたいと思ったこともありましたが、死後に対する底知れない不安に襲われました。このような不安を忘れようとして、ラジオや映画や小説で紛らわせようとしましたが、その不安は忘れた頃に繰り返しやって来ました。さらに自分の愚かさが原因で人間不信にも陥ってしまいました。誰にも相談できないで、孤立して生きていました。

 昭和34年(1959年)、以前から志していた総合無線通信士を目指して、北海道の片田舎の漁村から上京しました。学生寮に入りましたが、そこにはクリスチャンの副舎監の先生が私の前の部屋におられました。私が入る少し前に来られたばかりだったそうです。神様は私のような者のためにそのような恩師を導いて下さっていたのでした。

 その恩師を通して、バイブルクラスに参加するようになり、カナダ人宣教師に出会いました。そして1冊の新約聖書をいただきました。
 少しずつ聖書を読むようになってから約3か月後の11月3日の夜、暖房もない寒い部屋で布団に入って聖書を読んでいました。マタイ福音書の後半から読んでいたのですが、不思議なお方に惹きつけられました。



人類に対する三種類のさばき



 この世においては多くの矛盾があります。

 つとめて正しいことをしようとしている人が、

必ずしも良い報いを受けているとは限らず、

またその反面、悪いことの限りを尽くし、多くの人々を悲しませたり、

苦しめたりしている人たちが、結構、人々から称賛を受けたり、

良い報いを受けていることがあります。


 特別悪いことをしたわけでもないのに、

人も忌み嫌うような病気にかかったり、また、

耐えがたい苦しみを味わったりすることもあります。


 こうしたこの世の現実を見ると、

はたしてこの世のことがすべてなのかと疑問を

抱かざるを得なくなります。


 この世においてはあまりにも不公平であり、

悲惨ではないかと思わざるを得ません。

この世の生の後にこの世における総精算ともいうべきものが必ずあるはずです。

そのことを、聖書では、


 
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。
                                            (ヘブル9章27節)

と記されています。

 この神のさばきこそ、私たちがこの世において不当な報いしか

受けられなかったと思われる事柄が、すべて精算され、だれひとりとして、

不公平な取り扱いを受けることがなくなります。


 

「いずみ53号」(NTT・KDDI合同聖書研究会機関誌)

 昭和22年に始まった逓信省での聖書研究会は名称を

「NTT・KDDI合同聖書研究会」として今に続いています。

 様々な教団教派に属するキリスト者が、超教派の立場で

主イエス・キリストにある交わりを続けています。

 2016年で70年目を迎えようとしています。

2015年7月に発行した機関誌「いずみ53号」です。

いろいろな方々の証しや短歌等、励ましになれば幸いです。
 

 
 
◎ヨブの試練を通しての学び


 昨年七月、四〇歳になる息子が脳内出血で倒れました。

 防衛医科大の救命救急医療センターに運ばれ、様々な検査の結果、

右脳の一部の血管が損傷し、出血が脳全体を圧迫している状態であり、

この状態で手術しても、植物人間の状態になり

意思疎通は出来なくなることも承知して下さいとの説明を受けました。

 突然の出来事に、私には主にあわれみを乞う祈りしか出来ませんでした。

(中略)

 そんな中、今年二月に私も脳梗塞で入院しました。この出来事は、

不思議にも発病以来心を閉ざしていた息子が私に心を開いてくることとなりました。

 この間、私はヨブ記を読みたくなり、ヨブ記と共に過ごしてきました。

私たちが経験した試練は、ヨブの試練に比べれば蚊に刺された程度のことに

すぎませんが、大きな励ましを受けました。

 その中で、示されたことを分かち合いたく思います。


 
 
◎心の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである。


 心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものをも持っていない人であろう。

 金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、己れにたのむ何もないがゆえに、

ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
 
 イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、

いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。


 
 
◎神との交わりを回復する唯一の道


 キリスト者になってからの問題  
 
 キリスト者になってもなお、私たちには問題が起こります。何でしょうか。

再び罪を犯すことです。
 
 神の恵みにより、常習的に罪を犯すということはなくなりましたが、神の御前に、

罪の大小は関係なく、

罪は罪です。当然、その罪は神との間に隔離を生じさせ、交わりが失われます。

 キリスト者になった当時の私は、その問題を解決すべく考えました。

罪滅ぼしの観念です。

 人に喜ばれる善行に励もう。そうすれば、善行ゆえに、神は罪を赦して下さるだろう。

さらに奉仕活動や献金等も試みました。善行や奉仕活動をすると充実感があり、

内心気持ちが良くなります。
 
 これで神様は私の罪を帳消しにして下さった、と勝手に考えました。

愚かな私は、あれやこれや、様々な方法を編み出していたのです。



 
 
◎新生のための二つの条件


  ニコデモがこの世においてどんなに道徳的に立派でも、

また敬虔な信仰を持っていても、それだけでは神の国に入れない。

 あなたに欠けているのは教育ではない。

 御霊によって新しく生まれること、

 神の国に通用する新しいいのちが必要なのだと語られたのです。

 私たちの多くは、ニコデモのように、教養と徳を身につけ、

神に対する知識と信仰を深め、謙虚な生活を送ってゆけば、

神の国に入れると考えているのではないでしょうか。

 しかし、主イエスは、「人間からは人間のいのちが生まれるだけです。

けれども御霊は、天からの、全く新しいいのちを下さるのです。」

(3:6/リビングバイブル日常語訳)と語られました。


 
 
◎主をおのれの喜びとせよ。そうすれば


 この御言葉を何度も反芻(はんすう)して読んでいる時、

前半「主をおのれの喜びとせよ」と後半

「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」の間に

接続詞が入るのではないかと思わされました。

 
 ◎宮武さんが信仰をもったころ
 
 
◎申命記をどのように適用すればよいか

 申命記は神の人モーセの説教です。ただモーセのというのではなく、

120歳になった預言者モーセの言葉です。

 そこには40年間の荒野の訓練を通過した者の学びがあります。

 創世記から民数記までの四書にまさるとも劣らない御言葉に

満ち満ちています。

 主イエスは、この申命記から最も多くの御言葉を引用されました。
 
 この書には天地万物の創造主、真の神に対する知識・経験があります。

どのように神を礼拝し神に仕えるべきかが語られています。

神の慈愛、聖さ、公正さ、

人に対する思いやりを見ることが出来ます。

 しかし、「申命記の主の命令とおきては素晴らしいが、

私には手が届かない。飾っておくことは出来ても、

私には実行するすべがない」と感じる人も

多いのではないでしょうか。

どのように適用すればよいのでしょうか。


 
 ◎代価すべて払われたり
 
 ◎イエスの血によって、大胆に
 
◎コロサイ1章15節の考察
 
 ◎昭和基地の夕焼け
 
 ◎傍観者である者よ、聞け(マタイ福音書11章7~15節)